「地中海の侍」の誕生

マルコ・ポーロの語りによると、何世紀にもわたって日本は、シルクロードでの冒険的な商売以外にヨーロッパとの関係や交流がありませんでした。

 文書化されたシパンゴ(Cipango、日本)・ヨーロッパ間初の交流は、難破船で3人のポルトガル人船員が日本の島にたどり着いた1542年、ついに起こりました。

 依頼、主にスペイン、ポルトガルのイエズス会との出会いがあり、1582年には天正遣欧少年使節がヨーロッパを旅し、教皇と欧州各国の王たちと交流しました。

 同使節が良い結果を残したことから、1613年、偉大な権力者である伊達政宗は、ガレオン船「伊達丸」をヨーロッパに派遣することを決定。スペインとの商取引と、バチカンとの宗教的合意を確立するためでした。

 慶長遣欧使節は侍・支倉常長によって率いられ、22人の侍と商人たちとで構成されています。

 3年間にわたる交渉の末、使節は希望する協定を結ぶことはできませんでした。しかし、使節はその地に重要な足跡を残しました。スペイン人の情熱とあたたかさに魅了された侍たちは定住することを決心したのです。最初の「地中海の侍」たちです。

 伝統的な日本文化の価値観と地中海の情熱・創造性を初めて融合させた人々は、同じ姓「JAPÓN(日本)」をもつ何百人もの子孫を残した。

新「地中海の侍」

1543年以降3世紀以上の間、日本とスペインの間には商業的、宗教的な接触しかありませんでした。17世紀の慶長遣欧使節と最初の「地中海の侍」以外、お互いを知る機会となるような社会的交流はなかったのです。

1868年、ついに両国間で初となる公式な貿易外交協定が締結されます。しかし、二国間の関係性に根本的な変化が起こったのは、20世紀の終わり頃からでした。

 日本社会は突然、アントニ・ガウディの建築や、フラメンコの歌と踊り、スペインの文化、そして今日も成長し続ける地中海の情熱に大きな関心を示し始めます。

 そして同時に、スペインでは、日本の近代性と技術、美食、文学、武道、漫画などに対してだけでなく、日本文化や侍たちの価値観の魅力にも大きな関心が寄せられるようになりました。

 ここ数十年、両国の文化間で深く絶え間ない交流が行われ、私たちが「新しい地中海の侍」と呼ぶ新しい理念が誕生しました。それは現代性と日本の文化・価値観、地中海の情熱・創造性の融合です。

 私たちの文化と価値観を高く評価し、適応してきた在スペイン日本企業や専門家たちがもつ理念です。

 また同じように、伝統的な日本文化の概念と革新と現代性の能力を、考え方や活動に取り入れているスペインの企業や専門家たちももつ理念です。

 ここでは、私たちと協力している「地中海の侍」たちを紹介し、彼らの企画や活動についてお知らせします。

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